蕎麦好きの独り言(2014.0120up)

その一、「病魔」


齢を重ねると動くのが億劫になり楽な方へばかり寄るもので、我が脳髄は食い気に占領されている。
若い頃から麺好きで特にラーメンは大好きであるが、嗜好はサッパリ系へ移行し最近はレトロで中華そば風な店を探しまくっている。コッテリ系はとっくに卒業し、味噌や塩、担々麺などは論外、チャーシュー麺も遠くなる始末で最近流行の創作ラーメンの店など余程のことがない限り足が向かない。

週末は外食派でお昼には大概麺類をすすって温泉巡りを楽しむのが定番化しているが、当然蕎麦もよく食べる。山形は蕎麦屋が多いようにも思うが、庄内の酒田周辺にはなかなか私好みの蕎麦屋が少ない。この場で店の宣伝をする気はないのであまり詳しくは書かないが、酒田で本当に美味いと思った蕎麦屋はほとんど無い。
だが世の中上手くできているものでプロがいなくてもアマチュアはいるのだ。

と言うのも私の少ない知人、友人の中には蕎麦好きも多く、食べ歩き派から卒業し自分で作る人が少なからずいるのだが、ご存じのようにお調子者でヨイショの達人でもあるから年末の年越し蕎麦は、近年ずっと手打ちの美味しい十割蕎麦をいただいている。
この人は多趣味な方でタレも自分で作るのだが、これがまた素晴らしく美味しい。
蕎麦だれと言えば大概のお店では、鳥そばや鴨南蛮を除けば、鰹だしが主流である。しかし何とこの人の作るのは「鮎だし」なのだ。

昔の人たちは最上川で採った鮎を焼いてから保存し、何かに付けだしをとって料理に使ったらしいが、この味を知っているのは我々の親の世代で、歳はとっているが若輩者(無知なだけ)の私には珍味の部類に属する味覚である。年末になると厚顔にも指をくわえて待つのが常で、老親も懐かしい味を心待ちにしているのだ。

先日用事があって帰りが遅くなった日曜に、別の友人が蕎麦を届けてくれていた。さすがにこの日は食べることが出来なくてお礼の電話を入れ、折角の打ち立て蕎麦を食せない非礼を詫びたのだが、彼曰く、今回のテーマは「喉ごしと風味を両立させた蕎麦」なのだから、本当は当日食べて欲しかったと残念そうであった。

仕方ないので翌日に茹でて夕食にしたのだが、当然風味は落ちるよと言われていたので期待せずに食べると、これが何と素晴らしい風味で、かつ喉ごしも抜群に良いのだ。この人の蕎麦も過去に何度かいただいていたのだが、この日の蕎麦は別格で誤解を恐れず正直に申し上げれば、生まれてこの方こんなに美味しい蕎麦は食べたことがない気がした。早速電話を入れ美味かった旨のお礼を…
すると、この蕎麦を完成させるのに八年の歳月を要したとのこと。

蕎麦好きも遺伝するのか我が亡父も蕎麦に目のない人であった。親の悪いところは似ると言うが、偏屈な性格と酒と蕎麦好きが遺伝したように思う。
話は変わるが、我が家の押し入れの奥にも簡単な蕎麦打ち道具がある。何でそんなものがあるのかと言えば、家人が年一回ある地域の蕎麦打ち教室に数年前から出ており、ほんの気まぐれで以前買ったものなのだが一度も使わずに眠っていたのだ。
折角習ったのだから忘れないうちに一度家でもやってみようと言うことで、眠れる宝物を引っ張り出した次第である。

蕎麦は打つ手間があれば食べた方が良いと公言していた身ゆえ、台所の隅で傍観していたのだが、計量後最初の水回しをすると蕎麦特有の香りが我が鼻孔をくすぐりだした。猫のように好奇心だけは旺盛なので(人は物好きという)本当はやりたくないが大変そうなので手伝おうかと屁理屈を言い選手交代、家人の厳しい指導を受け、にわか蕎麦職人の奮闘が続いた。

F.佐藤さんのHPには簡単だと書いてあるが、ブッキーを自他共に認める自分には結構大変だったが、何とか蕎麦のような形になったので茹で上げた。
たいして期待もせず口に運んだが、これが結構美味しいのである。いやいや、そこらの蕎麦屋のものより格段に美味しいと言ったら自画自賛になるのか、もう後戻りできない自分がそこにいるのを認識した瞬間でもある。

その後たいして大きな失敗もなく何度か「にわか蕎麦屋」になってみたが、どうしても友人の「喉ごしと風味を両立した蕎麦」には至らない。

家人曰く、

「方や八年の歳月を要したのに、にわか蕎麦屋のあんたに出来るわけねーだろ」と一喝される始末…

やれやれ、病魔が…


  
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